おじいちゃんにねだって、息子がローソンで、RCカーを買ってきた。前から、トイザラスとか行くと気になっていはいた、おもちゃの一つだ。
俺が子供の頃には、RCつまりラジコンは、高嶺の花だった。エンジン式と電気モーター式があって、特にエンジン式の飛行機は、助走して飛んでいく姿が、実にこう、哀愁を帯びて感じ、胸が締め付けられる位に格好よかった。
子供の頃のそれは、もちろん、持ち主は自分ではなく、近所に住んでいる一戸建ての大きな家に住んでいるイヤミな奴だった。だから絶対に、操縦桿はさわらせてもくれなくて、ちょっとでも触ろうものなら、電光石火、怒られた。たいていは、操縦桿のアンテナの先には、ピンクのリボンかなんか付けていて、小憎たらしい奴だった。
ある日、下級生の子が、僕と同じく操縦桿に触れると、RC飛行機がバランスを崩し、墜落しそうになった。イヤミは、あわてた。必死の血相で、操縦桿を持ち直し、何とか無事着陸させると、その下級生の子を思いっきり殴った。その子は、鼻血をだして泣いた。みんなで、その下級生を、うちまで送ってやった。それから、僕達は、また空き地に引き返して、周りのうるさい小僧達がいなくなって、いい気になって飛行機を飛ばしているイヤミを少し離れたところから、見ていた。
そのうち、仲間の中でも、リーダー格のひろちゃんと言う奴が、着陸態勢に入って低空飛行体勢になったRC飛行機に向かって、石を投げた。僕達もそれに続いて、次々と石を投げた。しかし、RC飛行機は高価であるのを知っていたし、相手がイヤミで有るとは言え近所で唯一見られるRCだったので、心の底では、ぶつけちゃいけないとコントロールが働いたかもしれない。あいにくと言おうか,RC機は、またも無事着陸してしまった。それから、イヤミがものすごい血相で、こっちを睨んでいたが、RC機をおいて、僕達を追いかける訳にもいかず、何かぶつくさ騒ぎながら、RC機を片づけていた。
それから、イヤミが空き地で,RC機をとばす姿が見られなくなった。もう、RC機が見られないと思うと、あーあと言う感じがして、心の中で、ため息が漏れた。
何日か経った日の夕方、ひろちゃんが仲間を連れて、うちに来た。もう、夕飯が終わったばかりの時間で、そんな時間に友達が訪ねてくるのは、以外だった。聞くところによると、イヤミがRC飛行機を飛ばしていて、飛行機がどっかに飛んでいってしまったらしい。それで、イヤミが、みんなで飛行機を探してほしいと、ひろちゃんに頼んだのだ。そのことを親に話すと、いつもはそんな時間に、家を出るなんて許してもらえないが、イヤミがお金持ちの子だと、うちの親も知っていたので、イヤミの家の人も一緒ならば良いと許してくれた。
イヤミは、僕達の攻撃からRC機を守るため、いつもの空き地ではなく、ちょっと離れた川原の方で、RC機を飛ばしていたのだ。そのうちに、距離感を間違えて、旋回の和を大きくしすぎた為に、操縦不能となり飛行機が飛んでってしまったらしい。もとより、RCとは、ラジオコントロールの意、電波の届く距離には、限界がありそれを越えると操縦不能となってしまう。しかしながら、エンジン式のものは、燃料が続く限り飛続けると言う習性があり、今回の行方不明となってしまったのだ。その出自が、不幸の原因でもあった。
僕達は、ひろちゃんを先頭に、懐中電灯片手に必死に探した。鼻血をだした下級生の子も必死になって探していた。川の下流の方に向かって飛んでいったとイヤミが言うのだが、1キロぐらい周辺を探したが、見つからなかった。夜の8時をすぎたので、イヤミのお母さんが、僕達を家まで送くってくれた。イヤミのお母さんは、若くてきれいでいい匂いだった。どうも、後妻さんだという噂が流れていたが、僕は、後妻の意味が分からなかった。こんな人が自分のお母さんならいいのになあと、つくづく思い、家に帰ったら、親に後妻の意味を聞いてみようと思った。
翌日、学校に行くとそのことの話題で持ちきりだった。「飛行機が見つかったらしいぞ」とひろちゃんが言った。ひろちゃんの話によると、夜の捜索が打ちきりになった時、朝早くにもう一回探すからとイヤミに懇願されたらしい。「ええ、どこでっ?」「加藤商事の山につっこんだらしい」「ええっ、ってことは…・」「うん、翼がもぎ取れて、もうだめらしい」みんな一斉に、ため息を付いた。
もう、RC機が見られないのか、しかも、加藤商事の山とは、何ともむごい話だ。と言うのも、加藤商事とは、近所の川の下流地域に展開している汲み取り屋で、馬糞も取り扱っているのだ。つまり、加藤商事の山とは、この馬糞の山のことで、そこに、RC機は墜落してしまったのだ。もう誰もRC機に触りたいなんて思わなくなった。何とも惨たらしい出来事だった。
それから、十数年経ち友達の村田君が就職すると、自分の小遣いで、RC機をかった。電気モ-ター式のレーシングカーだった。村田君は、イヤミではないので、操縦桿を貸してくれた。そいつを操って、京成検見川駅の対して広くないロタリーをRCカーを走らせるのは快適だった。しかし、相変わらず高嶺であるのに変わりはなかった。壊すと大変なので、すぐに村田君に操縦桿を返した。
それからさらに、20数年経ち今日、RCカーや鉄道模型にうつつを抜かす、子供も大人も少なくなった。ある意味、病的な遊びとして、敬遠される向きも有る。しかしながら、操縦桿を握ると、かつての高嶺の花に思いをはせた頃が懐かしく、いつまでも操縦桿を握って離せない自分がいる。「パパばっかりやってずるい」と娘に言われて、ハッと我に返る。このRCカーが、いつまでも馬糞につっこむ事無く健在でいてほしいと切に願う、今日この頃である。
この本格RCカーが約千円で手に入る。プラモデル式に、自分で組み立てるのが、また嬉しい。レガシーを選んでくれたのが、さらに嬉しい。(新型だが…)