一年前の話ではあるが、去年の春に、金沢に住む従弟から結婚式の招待状が届いた。実家の両親の、強い意向も有り、家族総出で行くことにした。五人家族のうちの場合、交通費だけでも馬鹿にならない。その為、冠婚葬祭に関しては、金だけを送っていた。今回も,行くとは決めたものの、御祝儀や交通費含めた出費がいくらかかり、どう捻出するかが問題だった。 早速、ネットで検索し、家族5人が、金沢に一番安く行く方法を調べた。「往復の,交通手段は、夜行バス、泊まりは、アパホテル。」ってのが、どうも一番安そうだ。いや、泊まりは、親戚のおばさんの家に,泊めてもらえれば、飯付でただだ。なぞと考えた。
しかしながら実際に,行った交通手段は、新幹線だった。北陸新幹線が,未だ長野までしか開通していないので、上越周りで行く事にした。流石に新幹線は,早い。越後湯沢まで一時間ちょっとで行ってしまう。越後湯沢からは,在来線の特急「はくたか」に乗った。ほくほく線で新幹線を連絡して、金沢まで行くこの「はくたか」は、最新式の680系だ。最高時速160kの680系は、在来線最速で、越後湯沢から、金沢まで3時間弱で結ぶ。新型の車両は、座席もきれいで、揺れも少なく音も静かだ。「とき 313号」で、東京10:12に出発し、11:30に越後湯沢に着く。ここで、駅弁とビールを買い込み、11:48越後湯沢発の「はくたか 8号」に乗り込む。この間、18分はあわただしい。ビールを飲み、弁当を食いそろそろ飽きてきたなと思う頃、富山に着く。富山湾を見ながら、蜃気楼の季節ではないなーとは、思いながらも沖の方に目をやってしまう。確かに蜃気楼が見えた気がしたが、気のせいだろうか。富山と言えば、ここの駅弁の「ますのすし」が、子供の頃から好きだった。富山を出ると、40分弱で金沢には、ついてしまう。
18年ぶりに、金沢の駅に降り立った。以前とは違う近代的なビルに圧倒されながら、うーむ、千葉よりもでかい駅だな、この雰囲気は、大宮駅に近いなぁ。などと、最近、行ったこれも、第2の故郷である小学校時代を過ごした大宮近辺のことを思い出した。金沢駅前を通ると、富山では見られなかった新幹線の駅の工事が既に始まっていた。18年前に訪れたときは、祖母の葬式の時だった。姉が、身重の時でもあり、また冬の寒い日でもあったからこの地方都市の駅も、もの悲しく重苦しい雰囲気に包まれた印象だった。
そのもっとずーと前の、小学生だった頃(今から35年前)は、もっと違う雰囲気だった。駅前には、白い着物姿の傷痍軍人が、アコーデオンを弾きながら、傍らでは、足を負傷して立てなくてうずくまる様にしている4.5人がいた。いつも興味深く見入っていると、母が腕をとり、足早にせかしていくのであった。そのころと比べると、ずいぶんと立派になり、近年に流行ったNHKの大河ドラマ「利家とまつ」のせいもあり北陸の雄を高らかに主張しているようであった。
駅をすぎ、叔父がとってくれた全日空ホテルは、すぐであった。入り口のところに、でっかく「歓迎 日本泌尿器学会様」と書いてあるのが妙に目に留まった。前日に送っておいた宅急便の荷物とともに、チェックインを済ませると若い女性のポーターが、部屋まで荷物を運んでくれた。荷物を整理し、一息ついてから、早速、兼六園に行こうという事になった。部屋を出て、エレベ-ターに載り、ロビーに降りていくと、人がゴッタガイしていた。みな首から,IDカードをぶら下げていて、そこには「日本泌尿器学会」と書いていた。全くとんだ野郎ばっかの団体客と一緒になってしまったものだ。全日空ホテルというから宿泊者の中には、スチュワーデスがいっぱいというほのかな期待も裏切られた。
一種の贅沢として、うちでは禁じられているのだが、もう陽もだいぶ傾いてきていたので、タクシーを使うことにした。駅からは、20分ほどで石川門に着く。そこが、兼六園に入るときの正門であるらしい。その時間もまだ、観光客でゴッタガエしていた。茶店が並ぶ砂利道を通り、中に入っていくと、雪吊りの準備が始まったところであるらしく、思いがけず風物詩にふれられた。また、関東とは違う空気の冷たさもあり、全体にひんやりとした空気が感じられた。
名物のことじ灯籠のところには、これも見事に赤く染まった紅葉(もみじ)があり、古都の庭園の風景を、より一層引き立てるように雰囲気を醸し出している。さらに、進むと日本武尊の銅像があり、その先には、金沢市街を一望できる見晴らしの良いところがある。
近代化が著しい金沢であるが、古都の雰囲気を残した町並みは、都会のそれとは違って、背の低い黒瓦屋根の家々が多く見られた。
ほどなく、閉園時間の案内があり、もう少し居たかった気持ちを残しつつホテルに戻ることにした。戻りながら見た香林坊から、片町に抜ける金沢の繁華街は、賑やかだった。その風景をぼんやりみながら、また昔を思い出した。
片町は、昔から繁華街で、そこには「ダイワ」という大きなデパートがあった。小学生当時、その繁華街のデパートの前にも、白い寝巻き姿の傷痍軍人アコーデオン弾きがいた。
脇に、松葉杖をはさみながらアコーデオンを弾く人と、傍らには、負傷して片足が無いような感じで立てずにいるという姿の4、5人が居た。一度夕方時にこのデパートの前を通ったときに、彼らが店じまいをしているところの出くわした。アコーデオンの男は、楽器を終い片付けていた。ふと見ると、松葉杖も片付けているではないか。良く見ると、歩けなさそうにしていた連中も、元気良く松葉杖なしで立って、敷いていたムシロをきちんとたたみ、夕暮れが近ついた町の雑踏の中に消えていくのであった。彼らの就業時間が終わったのだった。そんなことを思い出しながら現代のこの繁華街を見ていると、東急とかが立ち並ぶおしゃれな町並みには、白装束の傷痍軍人はおろか、乞食さえ見つけることはなかった。乞食は、3日やったらやめられないというが、30年は続かないものなのか。
ホテルに戻ると、またもや泌尿器学会様ご一行でゴッタガエしていた。どうも、学会の講議がはねたらしく、そこらじゅうに、IDカードをぶら下げた人たちがあふれている。
この「泌尿器学会」と傍目にも露骨にそれと分かるIDカードを首からぶら下げていると言うのが、すごく滑稽だった。まあ、自分も男だから、ぶら下げているのはぶら下げているが、こうも露骨には主張したくないね。それは、やっぱり、ズボンやパンツと言った良識の府に包まれ、密に、それでいて、内なる情熱を秘めている。普段は、なりこそ慎ましやかにしているが、いざと言うときにはいつでも出動可能なレスキュー隊のように準備万端、勢い良く放水可能。また、時に神秘的なそれは、泌尿器なぞとは言うよりも、聖職者と呼ぶにふさわしいものであってほしいと崇高に思うのであります。
夜飯は、親戚が集まっての簡単な晩餐会であった。早々に眠くなった娘を連れて部屋に戻るときに、全日空ホテルのメイン・イベンター客室乗務員(レデー)にめぐり会えたのであります。ジャカジャーン。寝ている娘を抱いて、両手がふさがっているので、「何階ですか?」と聞いてくれる。こちらは、妙に緊張して、「はっはぁー」と言う感じになる。彼女たち(二人居た)の一人が、寝ている娘の顔をのぞき込むように、「可愛いわねー」と顔を近づけてきた。この客室乗務員女子のほのかな香りと、例のシンボル的スカーフの下に隠れた胸元が、わずかにのぞき、わが聖職者は、淫らにも俄かにウズクのであった。
翌日は、結婚式であった。金沢での結婚式は、過去に2度お目にかかったことがある。一度目は、小学生のとき、昔のおばあさんの家だった。昔の家は、広い4帖半ぐらいの土間があって、まずそこにお嫁さんが入ってくる。すると、三々九度で杯を傾けると、そのまま土間に落とすのだった。すると、あたりにその杯が、割れる音が威勢良く響いて、嫁がきたというのを知らしめるのだという。そう言う儀式が実際にあった。二度目も小学生の時で、親父の弟の結婚式だった。なぜだか良く覚えていないが、親父の実家で、親戚が集まっていた。長土塀という金沢の下町で、古い造りの親父の実家は、2階に上がる階段に手すりが無く、階段の下は、引き出しがついていた。2階に人があがると天井がみしみしいって、どこを歩いているかが分かるのだった。今思うと、貧しい造りの田舎の家だったが、そこには昭和があったのだろうなとつくづく思ふ。
結婚式が終わると、既に午後の陽が傾きかけていた。再び兼六園へと足を伸ばした。昨日よりも更に、雪吊りが進んでいた。その夜は、夜間の開放もあるという。親戚のおじさんに聞いたのだが、片町の芸者集が出て踊りを舞うとの事だった。ちょっと見て見たい気もしたが、午後の内に粗方回ってしまったので、夜は、城のライトアップを見に行った。
この出来立てのお城は、いわゆる天守閣のついた城ではなく、15間堂の長城だった。しかしながら総檜を使った頑強で立派な城であった。タクシーの運転手さんに言わせると、今はまだできたてのほやほやだが、百年経ったら国宝だというのが地元の自慢だった。その自慢が、自分の胸にも沸いてくるほどにこの故郷と同期化したかったが、それには、もう少し時間が必要だった。年老いた両親とともに、女房と3人の子供を連れて、北陸線を東上し、家路に着くのであった。